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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年7月5日(日) 08時30分

    『中国行程記』から(2)梨ケ原

    2020年6月30日(火) 放送 / 2020年7月5日(日) 再放送

    山口県の萩藩の絵図『中国行程記』を現代によみがえらせた橘川真一さんの著書『播磨の街道』を基に、船坂峠から西へ上郡町の梨ケ原辺りの歴史を見ましょう。船坂峠は備前と播磨を分ける「国境の峠」で、古くから難所として知られ、また多くの節目でさまざまな物語を生んできました。

    前回は、備前の国の武将・児島三郎高徳が船坂峠で後醍醐天皇を助け出そうとしたものの失敗に終わった「船坂山の義挙」を取り上げました。高徳の義挙は1332年3月でしたが、その4年後の1336年3月にも、この峠で別の節目が訪れます。島根県の隠岐に流されていた後醍醐天皇が楠木正成らの導きで復活し、鎌倉幕府を倒して「建武の新政」を始めて3年後のことです。

    建武政権樹立に貢献した足利尊氏や赤松円心が、冷遇に不満を持つ武士らに担がれて後醍醐天皇に反旗を翻したのが1335年10月でしたが、建武政権側の楠木正成らに追われて、尊氏軍がいったん九州に落ち延びようとした頃です。政権側の新田義貞が尊氏を追う中、円心はこれを食い止めるため、上郡町赤松の白旗城で挙兵し、義貞軍の防波堤として立てこもったのが船坂山で、義貞軍は梨ケ原に陣を置きました。この時は、義貞軍が2万余騎という数にものを言わせて赤松勢を破っています。

    義貞は、後に「落ちない城」で知られる白旗城の攻略を試みますが、どうにも攻めあぐねて、軍勢を二つに分け、船坂から備前へと兵を進めました。時代は『行程記』が書かれた江戸中期から400年以上も昔をしのびながら、山陽道の付近の様子を記しています。「二つの峰が険しくそびえている間を一本の細い道が通っているだけて、谷は深く、岩は滑り、曲がりくねった登り道が20余町も続いていた。雲や霧がかかって暗く、遠くも見通せないほどだった」とあり、さらに峠の備前側に(かみ)・中・(しも)の3軒の茶屋があり、これを守るため岡山藩が毎年、助成を続けているとも書いています。

    船坂峠を西に下った梨ケ原には「落ちる地面の地」と書いて「落地(おろち)」と読む珍しい地名があります。平安後期の説話集『今昔物語』に、古代山陽道の野磨駅家(やまのうまや)の天井にすみ着いていた大蛇が、ここに泊まっていた高僧の読経で改心し、生まれ変わって名僧になった―との地名由来が記されています。

    しかし実際は、峠の間の低い土地を意味する「落ち地」からいつしか読みが「おろち」へとなまり、「八岐大蛇(やまたのおろち)」へと想像が膨らんだ結果とされています。『行程記』に描かれる「大避大明神」は明治11年、船坂神社に合祀されました。