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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年7月12日(日) 08時30分

    『中国行程記』から(3)有年の宿

    2020年7月7日(火) 放送 / 2020年7月12日(日) 再放送

    萩藩の絵図『中国行程記』と『播磨の街道』を基に、船坂峠から西へ7キロほどにある赤穂市の「有年宿(うねじゅく)」を取り上げます。この辺りには東西に走る新旧の主要道が3本通っています。道路は、時代ごとの必要に応じて都合がいいように付け替えられてきた結果、今では国道2号が生活道路で、さらに山陽自動車道も加わっています。

    最も古い古代山陽道は、奈良時代に、いわば国家プロジェクトとして奈良から九州の大宰府まで、なるべく直線で付けられました。しかし鎌倉時代になると、陸路より海路が重んじられるようになったため、道路は田や畑に転用され、痕跡はかなり薄れましたが、駅家跡の発見により、かつてのルートも徐々に分かるようになりました。

    上郡町落地(おろち)の「野磨駅家(やまのうまや)跡」は、古代山陽道の研究に役立ちました。奇跡的に良好な状態で残り、古代の交通体系を明らかにする上で重要なため、2006年に駅家跡としては全国初の国史跡に指定されました。上郡町では野磨と東の高田駅家が置かれた道筋は、国道2号とつかず離れず残る西国街道より、かなり北寄りを走っています。

    では、なぜ古代山陽道に代わって、南寄りに西国街道が付け替られたのでしょうか。どうも山陽道が廃されていたため新道造成の必要に迫られたようです。時は鎌倉中期、1274年の「蒙古襲来」により道の重要性が見直されたからでした。新道は「筑紫大道(つくしおおみち)」とも呼ばれるように、鎌倉から京を経て筑紫、つまり九州へ急いで行く手段でした。

    有年が宿場町になったのは、新山陽道の完成以降だと思われます。西から有年峠を越えた街道は西有年に至り、最初はここに宿場が設けられました。東から西へ向かう旅人のために峠の前の方がいいとの計らいだったのですが、3キロほど東を流れる千種川は播磨第一の急流で、よく川止めに遭いました。そうなると、宿場は川の東の方がいいとの判断で江戸初期に東有年へと移されたようです。以来、大名らが泊まる本陣や脇本陣をはじめ旅籠などが100軒近くも軒を連ねる宿場町に発展しました。

    東有年の西の入り口にある八幡神社前の案内には、「古城山あるいは八幡山の城と言った」とありますが、以前、紛らわしいと指摘した八幡山城のことです。再度、整理しましょう。この城は八幡神社の北側にあり、地名から有年城あるいは有年山城とも呼ばれ、赤松家臣だった富(戸)田(とだ)右京が築城したという、赤穂市内最大の山城です。

    厄介なのは、富田氏が2キロほど南の鍋子城から八幡山に移った際、鍋子の別名、谷口・中山などのうち大鷹山を八幡山にも使った結果、大鷹山城は八幡山城と鍋子城の両方の別名となり混乱を生みました。八幡山から千種川を挟み東へ1.5キロ余りには小鷹山まであります。