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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年7月26日(日) 08時30分

    『中国行程記』から⑤赤穂城下への道

    2020年7月21日(火) 放送 / 2020年7月26日(日) 再放送

    山口県の萩藩が残した絵図『中国行程記』に記された江戸中期の西播磨の様子を眺めるシリーズの5回目です。古代山陽道が廃された後、東西を往来する道の必要性から鎌倉中期になって、山陽道の南側に「西国街道」が造成されました。しかし、赤穂城下からは離れているため、西国街道と赤穂をつなぐ道が計6本も整備されました。

    江戸中期の1747年に藤江忠廉(ただやす)が著した『播州赤穂郡志』には「周世(すせ)坂を越す百目堤を元は姫路海道と云う」とありまして、赤穂から千種川沿いに北へ上がり、周世坂を越えて有年宿に出る道が最も利用されたようです。また、赤穂から東の坂越を通り高取峠を越えて相生に抜けるルートは、江戸城で発生した赤穂事件を知らせる早駕籠も駆け抜けた道でした。

    しかし先の『赤穂郡志』によると、この坂越から高取峠越えの道は「浅野の家以後の事也」と記しているため、浅野長直が茨城県笠間市の笠間藩から赤穂にお国替えとなった1645年以降となります。加えて、赤穂藩主の浅野氏は、不便を解消しようと西国街道を城下へ導こうと働きかけたが、果たせなかったとも書いています。とはいえ高取峠を越えるルートは、赤穂と最短で結んでいるため、その後も主要道の地位は揺るがず、今も国道250号として重宝されています。

    ほかにも、千種川沿いに有年に出る道や、赤穂の西から湯ノ内谷を通って西有年に出る道、帆坂峠を越えて岡山県の三石(みついし)へ、さらには播磨灘沿いを岡山県の日生(ひなせ)から備前片上へ行く道など多数ありました。西国街道の“誘致”に失敗しても、少しでも通行の利便性を高めようとした藩主の熱意の表れかもしれません。

    『中国行程記』が書かれた頃は、高取峠越えが一般的だったようで、西国街道の分岐点から西へ相生市(くが)の久賀村を通り、相生湾に面した入船の西側を那波(なば)村へと至り、湾内に突き出た形で古城と二ノ丸が描かれています。2019年4月下旬から5月にかけて紹介した大島山城です。

    『行程記』には「山麓回り100間余、二ノ丸の回りは60間余りで櫓があったが、今は畑で、昔の城主は海老名源蔵」と記している所まではいいとして、「源蔵がどこからか来て落城した」と、調査不十分な雑な書き方でお茶を濁しています。「この入江は200石船などの出入りが多く、小さな島だったが、大島と呼んだ」と記す大島は、他の記録によると、この頃は既に陸とつながって半世紀ほどたっていたと思われます。