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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年8月23日(日) 08時30分

    『中国行程記』から⑨正条の渡し

    2020年8月18日(火) 放送 / 2020年8月23日(日) 再放送

    萩藩が残した絵図『中国行程記』を基にしたシリーズの9回目です。江戸時代には、現代で言う1級河川に当たる大きな川には原則として橋を架けませんでした。土木技術が及ばなかったのに加え、治安維持と防衛上の観点から幕府が認めなかったとも言われます。このため街道の各所で「渡し船」が川の両岸をつないでいました。こうした渡し場は旅人でにぎわい、水かさが増して川止めとなった時に備え、多くは宿場も兼ねていました。

    西国街道を相生市(くが)から東へたどると那波野に入り、『行程記』には道の北側に真宗西法寺とありますが現在は見当たりません。しかし、南側に描かれている荒神は今も子安荒神社としてそのまま場所に鎮座しています。たつの市揖保川町原には、かつて中間の宿場として栄えた片島宿がありました。本陣・山本半右衛門、脇本陣は花屋庄右衛門と大門屋治右衛門で、明治維新の頃までは旅館や茶店など80軒もあったと言います。

    この地を統治していた龍野藩では、街道を整備するとともに、諸大名を送迎する使者場を片島宿の出入り口に設け、参勤交代のたびに藩主の使者が挨拶に訪れたと言います。『行程記』には「当宿は下りは送りなし、半宿なり」と、ちょっと面白いことが書かれています。つまり片島は、上り客用の宿場で、下り客は約2キロ東の正条(しょうじょう)宿が受け持ち、役割を分担していたようです。片島本陣の山本家には石標があり、本陣の門は、すぐ東の了福寺に移築され、今も山門の機能を果たしています。

    『行程記』は揖保川町大門にある長谷山城にも触れていますが、「古城山、長谷山の城という。城主は江藤越中守」とした上で「越中守の由来知らず」の記述を見ると、当時既に山城に関する情報が乏しくなっていた実態が知れて興味深いですね。長谷山城については今年5月末から2回取り上げましたが、少し補足します。城の北1キロ弱にある、行基の開基と伝える宝積(ほうしゃく)禅寺には空井戸がありまして、長谷山城に通じる間道だったと伝えます。また戦乱で亡くなった兵を弔うため大門と原に地蔵が建てられています。

    東に揖保川の流れを控える正条宿には、本陣・井口市兵衛、脇本陣・丸屋五郎右衛門、問屋・梶右衛門、船庄屋・七郎兵衛がありました。周辺には旅籠・問屋・馬借など180軒も立ち並び、「正条市」という物資の集積地も兼ねていたところから、近辺随一の繁栄ぶりだった様子がうかがえます。地理的にも、海路を利用する室津街道への分岐点だった上、北へは龍野城下など西播磨に通じるなど大きなターミナルでした。

    明治初期まで栄華を誇った「正条の渡し」も、今はうそのように、名残のムクの大木が数本茂るだけとなっています。