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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年8月30日(日) 08時30分

    『中国行程記』から⑩室津道・馬場宿

    2020年8月25日(火) 放送 / 2020年8月30日(日) 再放送

    萩藩が残した絵図『中国行程記』を基にしたシリーズの10回目です。たつの市揖保川町の正条宿が栄えたのは、揖保川を越える「渡し場」に加え、港に至る「室津道」への分岐点だった事実も寄与しています。萩藩など西国諸藩は江戸への参勤交代の際、陸路に加え時折、海路も使っていました。楽なのはもちろん海路ですが、風向きや嵐などの天候や気象条件に左右される船は、常に使えるわけではありません。

    それでも江戸時代を通じて参勤交代の寄港地となった室津は大いに栄えました。その港と西国街道を結ぶ室津道は、古く奈良時代から幹線道路として存在感を示します。特に中世後期には、播磨守護の赤松氏を中心に、やがては守護代だった浦上氏が下剋上を演じた舞台も、この界隈でした。

    その室津道を東から南西へとたどると、正条宿から揖保川に沿って下り、支流の馬路川を渡った辺りから、四国・讃岐の丸亀藩の領地に入ります。と言うと、少し不思議な気がします。付近一帯は播磨・龍野藩の領域なのですが、同じ播磨にも遠くの藩の飛び地があります。有名な所では、幕末の軍略家から明治期に技術官僚として活躍する大鳥圭介を輩出した上郡は、尼崎藩の飛び地でした。現在のたつの市の一部、揖西郡など1万石を丸亀藩・京極氏が支配していました。

    京極氏と言えば、龍野藩主から丸亀藩にお国替えとなった後、龍野の地が幕府直轄領となるのをいいことに、「城を解体して、建材から石材に至るまで残らず赴任先の丸亀まで持っていった」との多少“尾ひれ”の付いた話で知られます。同じ6万石での移封でしたが、丸亀では5万石しか確保できなかったためか、不足分の1万石を前任地の龍野で、飛び地として確保したわけです。龍野を去るときの京極氏の行動を知る龍野の人々、中でも揖西郡の住人は、さぞやりきれない思いだったに違いありません。

    室津道は、揖保川町袋尻で揖保川から離れ、南に向かうと、堤防脇に小さな祠があり、その前に「丸亀藩使者場跡」の標柱が立っています。揖保川町片島にあった龍野藩の「片島使者場跡」と同じで、こちらは丸亀藩の使者が参勤交代で街道を通る大名一行に挨拶をした場所です。

    『行程記』は、中世の山城にも触れていて、丸亀藩使者場跡の西の山を「梶山ノ城」と記しているのは、揖保川町市場の梶山城ではなく、袋尻の伝台山城を誤ったと思われます。この街道沿いの山城は、室津にある室山城でゴールとなるのですが、御津町南部の播磨灘に張り付く、基山・武山・伊津・雛山の4つの山城については次回以降、取り上げます。