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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年9月13日(日) 08時30分

    基山城と武山城

    2020年9月8日(火) 放送 / 2020年9月13日(日) 再放送

    たつの市御津町南部の黒崎にある基山城と武山城です。御津町の海岸沿いには、赤松円心の命で弟の萩原孫三郎光則とその息子・孫四郎敦則の親子が築城したとされる基山城と、1キロほど東に位置する武山城がありました。さらに武山城の北2キロ弱には雛山城があって、雛山城の3キロばかり西に伊津城も存在していましたから、互いに連携して播磨灘ににらみを利かしていたと考えられます。

    前回、お話した基山城を築城した、赤松円心の弟・光則の系統は、本家の赤松家を離れ、独立した家を誇示するように、次々と新たな名字を名乗っています。赤松光則本人が「初代萩原氏」を名乗って以降、萩原氏の6代目・基知が「須賀氏」、その次男・知常が「鯰尾(なまずお)氏」、知常の息子が「藤尾氏」といった具合に名字を変えています。

    残念ながら基山城に関する資料はほとんどありません。国道250号の「新舞子口交差点」を南へ下ってしばらく行くと、海水浴場の東側に海抜63メートルの山頂に基山城があります。元弘年間(1331~34)に円心の弟・萩原孫三郎光則が、たつの市揖西町の土師(はぜ)城から、この基山城に移って居城したと言います。頂上部の少し開けた所の東寄りに、県の史跡で4世紀中頃の前方後円墳「輿塚(こしづか)」があり、その後ろの小高い削平地が本丸跡と見られます。さらに北側は竹林となっていますが、あちらこちらに城跡をしのばせる土橋状の地形をはじめ空掘跡、石垣、石積み、それに曲輪跡らしき場所も残っています。

    基山城の東にあるのが、海抜68メートルの武山城です。今は大正8年に成山(なりやま)徳三郎が干拓に着工し、昭和12に完成した畑地「成山新田」が南に広がっていますが、築城当時はもちろん城は海に面していました。城の下に「播磨十水」に数えられる「篠井(しのい)乃水」があります。ここから竹林をかき分けて登ると山頂に武山城があり、途中、石積みや曲輪、土塁が見えます。萩原孫三郎光則の嫡子・孫四郎敦則がこちらの城主となりました。

    「篠井乃水」が出たついでに「播磨十水」について触れておきましょう。この手の「三」や「五」や「七」などの数字の付いた名所は、全国至る所にありますが、なかなかくせ者です。例えば、三大と名乗るものが四つ以上ある場合などで、播磨十水も多少の違いがあり、例外ではありません。『播磨鑑』に、後期赤松氏の2代目・赤松義村が定めたとする一方、『播磨名所巡覧図会』には義村の曽孫・赤松則房の記述があって厄介です。

    篠井乃水は、たつの市の名勝に指定されているほか同市揖西町に小柳清水、姫路市内に小野江清水、岡田苔清水、御所清水、揖保郡太子町黒岡の桜井清水、神戸市西区岩岡町の野中清水などがあり、多可町加美区の落葉清水は「松か井の水」とも呼ばれ「平成の名水百選」でもあります。