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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年9月20日(日) 08時30分

    雛山城と伊津城

    2020年9月15日(火) 放送 / 2020年9月20日(日) 再放送

    たつの市御津町山田の雛山城と伊津(いつ)の伊津城です。前回は、御津町黒崎にある基山城と武山城を取り上げましたが、4つの山城は程近い所にあります。武山城の北2キロ弱には雛山城があって、雛山城の3キロばかり西が、茶越城とも呼ばれる伊津城となっています。共に播磨灘防備のために築城されたと思われます。

    場所は、国道250号の刈屋交差点から北へ走り、たつの市民病院の北側を西に曲がった北側に、海抜120メートルの雛山城があります。山頂に大きな岩盤があり、岩の南東には削平地が3カ所、そして石垣も少し残っています。雛山城に関する資料もほとんどないため、付近の山城と同様、1441年の「嘉吉の乱」の際、攻め寄せた山名氏によって落城した事実ぐらいしか分かりません。

    もう一つの伊津城も、城本体の情報不足の点では似たようなものですが、地名に関する記録は多少あります。古く『播磨国風土記』に、揖保郡18里の一つ石海(いわみ)里の中に、「津」に「都」を当てた「伊都(いつ)村」の名で出てきます。地名由来として、神功皇后が朝鮮半島に出征する際、船の漕ぎ手が「この地にいつか再び帰れるか」と問うた「いつか」から地名が付けられたとの説を挙げています。この由来は、伊津の地が古くから船の停泊地であった事実を伝えています。

    その港町・伊津の発展ぶりは、室町中期の1445年1月から1年間、今の兵庫港に入港した船に関する記録である『兵庫北関入船納帳』に記されています。それによると、伊津の船頭・衛門三郎の持ち船6隻が米・小麦・小イワシ・豆・塩などを積んで兵庫津の問丸・衛門九郎方へ入港しています。この事実から、当時の伊津は農業のほか、漁業や海運業も盛んだったことが分かります。

    そもそも衛門三郎が伊津から兵庫津へと物資を運ぼうとしたのには訳がありました。時は1445年7月2日。その前年、赤松満祐の従弟に当たる赤松満政が、さらに3年前の満祐による嘉吉の乱のため、一族を率いて播磨を脱出したのを契機に室町幕府は、山名持豊に赤松氏追討を命じ、播磨各地で戦乱が起きました。初登場の赤松満政は、円心の三男・則祐の孫、つまり則祐の三男・満則の息子で、同じ則祐の孫・満祐とは同世代かと思われます。船頭・衛門三郎の行動は、この戦乱がきっかけとなったようです。

    室町末期の伊津城に関する数少ない記録があります。「小松原盛忠なる武将が伊津城を構築し、海岸の警護に当たった」というものです。小松原氏は兵庫盛忠とも名乗ったことからすると、兵庫津との海運に関わった者かもしれません。ただし「伊津城を構築」とは、何度かの落城を経て使えるように修築したとの意味でしょう。