『中国行程記』から⑭大灯国師生誕地
2020年10月13日(火) 放送 / 2020年10月18日(日) 再放送
萩藩が残した絵図『中国行程記』を基にしたシリーズの14回目です。「室津道」から元の西国街道に戻り、たつの市揖保川町正条から揖保川を渡り東へと向かいます。ひなびた所に意外な大人物が生まれていたケースはまれにありますが、たつの市揖保町門前もそんな驚くべき村でした。何と宝林寺の前に「大灯国師生誕地」の石碑があります。大灯国師と言えば、京都市北区の大徳寺を開山したことで知られる高僧です。
その宝林寺は、京都・大徳寺の開祖である大灯国師生誕の地と伝えられています。江戸中期の1738年に大徳寺から尼崎にある広徳寺の万仭という住職を遣わして龍野藩主・脇坂安興に出願し、宝林庵を建立しました。『行程記』の有馬喜惣太が通ったのは、宝林庵が出来て四半世紀を経た頃と思われます。その後、明治14年に庵が大破したため再建し、これを機に庵号を改めて宝林寺としました。
宝林寺辺りで生まれた大灯国師は、正式には宗峰妙超と言う鎌倉末期の臨済宗の僧です。たつの市揖保町辺りを本貫とする豪族・浦上一族の浦上一国を父に、赤松円心の姉を母として生まれました。11歳の時、姫路の書写山円教寺に入り、天台宗を学んだ後、禅宗に目覚め、京都や鎌倉で修行を積み、30代半ばに母の弟・円心の帰依を受け、京都・洛北の紫野に建立したお堂が大徳寺のルーツとされます。
大灯国師の名声はますます上がり、花園天皇も帰依し、1325年には大徳寺を祈願所とする院宣を発しています。1336年ごろ、後醍醐天皇から大徳寺に下総国の替え地として、国師ゆかりの播磨国浦上荘を寄進された際、その半分を浦上一族に分配する許可を申し出ると天皇は承認し、浦上為景にその旨を伝えました。浦上荘の半分地頭職を得た浦上氏は後に赤松氏被官となって守護代や侍所所司代などを務め、室町期から戦国時代にかけて西播磨で勢力を伸ばしていきますが、円心の姉の息子、つまり円心の甥である大灯国師さまさまでした。
しかし、浦上氏は赤松氏の配下として各方面で活躍し、特に赤松本宗家断絶後の復活に際しては、立役者の政則を随分助けました。しかしやがて来る下剋上の嵐の時代にあっては、政則の養子・赤松義村を浦上村宗が殺害に及ぶ、まさに骨肉の争いを演じようとは、大灯国師は夢にも思わなかったでしょう。
1337年、国師は病に伏しましたが、花園法皇の求めに応じて、法皇が師とすべき禅僧として、弟子の関山慧玄を推挙しました。また、法皇が花園の離宮を禅寺とするにあたり「正法山妙心寺」と命名し、同年12月22日、国師は死去しました。妙心寺では、この年を開創年とし、国師の推薦を受けた慧玄が開山となっています。
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