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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年10月25日(日) 08時30分

    『中国行程記』から⑮林田川

    2020年10月20日(火) 放送 / 2020年10月25日(日) 再放送

    萩藩が残した絵図『中国行程記』を基にしたシリーズの15回目です。西国街道を西から東へ揖保川を渡ると、たつの市揖保町門前にある宝林寺辺りは、京都・大徳寺の開祖として知られる大灯国師生誕地でした。さらに東へ向かうと、南北に流れる林田川に誉鳩(ほんきゅう)橋が架かっています。西側の揖保川に比べると随分川幅は狭いのですが、かつてはこの林田川が付近の地名から阿曽川と呼ばれ、揖西郡と揖東郡を分ける郡境になっていました。現在は林田川の西がたつの市揖保町で、東側は揖保郡太子町へと変わりました。

    『行程記』には阿曽村を、浅く生まれると書く「浅生村」あるいは、赤穂藩主家に引っ張られるように「浅野村」と記していますが、もちろんこれは間違いです。旧阿曽村は戦国期の文書に見えるばかりか、10世紀に成立した『延喜式神名帳』に記される「阿宗神社」があり、社伝によると創建は欽明天皇の6世紀後半にもさかのぼります。その後、鎌倉期には、たつの市誉田(ほんだ)町広山の現在地へ遷座し、江戸期には弘山八幡宮と称します。

    かつて神社があった場所には小さな宮がありましたが、次第に寂れ、明治中頃には現在の阿宗神社に統合され、これを機に広山の八幡宮は元の阿宗神社の名称に戻りました。長い神仏習合の名残で明治に改元される年まで、天台宗の斑鳩寺の別当持ち神社の位置付けでしたが、1868年の神仏判然令によってお寺から離れました。この神社が創建された故地には「式内阿宗神社」の石柱が建てられました。

    阿宗神社は林田川の東に建てられ、600年余り後に川を西へと渡り、少しさかのぼった所に移ったわけです。川船で渡るほかなかった揖保川に比べると、林田川は幅の狭さもさることながら水量も少なかったようで、江戸期の日記の中には「歩いて渡った」と記されたものもあります。

    例えば、江戸中期の1744年、三重県亀山市の伊勢亀山藩主・板倉勝澄が岡山県高梁市の備中松山藩に転封する際の道中記にも「阿曽川があって、幅90間(約160メートル)ばかりで徒歩(かち)渡り」とあります。その82年後、江戸後期の1826年にこの川を渡ったドイツ人医師シーボルトも『江戸参府紀行』に「流れが小さくなっていて、所々で歩いて渡った」と記しています。シーボルトが西播磨に残した足跡については、やがて詳しく取り上げます。

    この林田川は、揖西郡と揖東郡を分ける郡境になっていたと述べました。確かに川の東の阿曽は揖東郡で、西の宝林寺がある門前は揖西郡です。しかし、阿宗神社の移転先である、川を西に越えた広山は不思議にも揖東郡でした。この辺り、郡境が入り組んでいたかもしれません。