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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年11月1日(日) 08時30分

    『中国行程記』から⑯鵤宿

    2020年10月27日(火) 放送 / 2020年11月1日(日) 再放送

    萩藩が残した絵図『中国行程記』を基にしたシリーズの16回目です。太子町の立岡山(たつおかやま)にある石蜘蛛(いしぐも)城を取り上げます。2020年1月から2月にかけて一度取り上げましたが、少し復習しておきます。山城の築城より随分昔の話が『播磨国風土記』に記されており、「応神天皇がこの山に登り、四方を眺めて国見をした」とされる「御立(みたて)(おか)」が立岡山だとしています。

    時代が下り、鎌倉中期から後期に差し掛かる頃、1279年、越前島津氏の2代目、従五位下・島津忠行が、今のたつの市南部の下揖保荘(しもいぼのしょう)と布施郷の地頭職となったのを機に築城したと伝えます。島津氏が地頭となった下揖保荘は、今のたつの市揖保町から揖保川町東部にかけての地域で、布施郷はたつの市揖西町南西部です。

    以後、1534年、島津左近将監(しょうげん)忠長まで14代、250年以上にわたって島津氏が石蜘蛛城主を務めました。この山城も鎌倉幕府の倒幕から、後醍醐天皇による建武の新政を経て、足利尊氏の室町幕府樹立、さらに南北朝の争乱など戦乱に翻弄されます。築城56年後の1335年、後醍醐天皇方の新田義貞勢が京都から播磨に攻め下り、立岡山の北麓に本陣を置き、戦の最中、立岡山から500メートルほど北にある斑鳩寺の僧たちが義貞の戦勝祈願をしたとされます。義貞は公家の大納言・四条隆資(たかすけ)にこの様子を報告し、「恩賞あるように」と書き添えた事実が、斑鳩寺に伝わる「新田義貞書状写」からうかがえます。

    新田義貞軍と対峙していた赤松円心軍は、いったん兵を引き、上郡町赤松の本拠地・白旗城へと引き上げ、相生市矢野町森の感状山城などの枝城と連携して、篭城作戦を取りました。尊氏を追う義貞は、6万余りの大軍を率いて鵤宿に陣を構え、白旗城を攻め立てます。数日間滞在した義貞勢は大軍であふれ返ったと言い、本陣を置いた近くの斑鳩寺は戦火を恐れて朝廷に訴えたため、林田川を西に渡った、たつの市誉田町広山の阿宗神社の別当寺に軍を移しました。『行程記』にある「義貞軍が石蜘蛛城に居城した」事実は確認できません。

    鵤宿は大きな町だったと見え、西国街道沿いと斑鳩寺に至る町並みや本陣屋敷をはじめ番所などの大きな建物や商家、蔵などが立ち並んでいました。しかし「駅にあらず」の注釈が気になります。参勤交代の大名らも宿泊する普通の宿場ではあったものの、人や荷物を運ぶ「駅」としての機能は無かったという意味で、つまり、宿場として発展したのではなく、あくまで斑鳩寺の「門前町」だったからでしょう。とはいえ萩藩主の毛利氏は、江戸中期の1741年から6回も続けてこの鵤宿に泊まるほど定宿にしていました。