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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年11月15日(日) 08時30分

    『中国行程記』から⑱太子の膀示石

    2020年11月10日(火) 放送 / 2020年11月15日(日) 再放送

    萩藩が残した絵図『中国行程記』を基にしたシリーズの18回目です。太子町鵤の斑鳩寺周辺には聖徳太子ゆかりの遺跡がいろいろあります。606年に太子が推古天皇に法華経を講義して、播磨国揖保郡の土地360町歩を賜って命名した斑鳩(鵤)荘の地名が今も息づいています。そればかりか、賜った荘園の範囲・区画を示すために置かれた膀示石(ぼうじいし)が、しっかりと現存するのは驚きです。

    膀示石は、高さ1メートルほどのごつごつした何の変哲もない大きな石なのですが、全国的にも類例のない荘園膀示石として貴重で、兵庫県の史跡に指定されています。1329年の『鵤荘絵図』には計11カ所描かれていますが、現在は4カ所に5個が確認されています。地元では「聖徳太子の『投げ石』あるいは『はじき石』」、また単純に「お太子さんの石」と呼ばれ、「触れたり動かしたりするとたたりがある」とされます。伝説では「太子が近くの海抜165メートルの檀特山から石を飛ばして荘園の境を決めた」との由緒を伝えています。

    聖徳太子が生きていた古代から700年もたった中世の荘園絵図にも「太子ゆかりの膀示石」が描かれている背景には「太子信仰」があります。太子に関する伝記は既に『日本書紀』に見えますが、『上宮(じょうぐう)聖徳法王帝説』は、古い伝承に加え、多くは平安時代に入ってから作られました。信仰が拡大するのは、平安中期に『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』が編まれ「救世(ぐぜ)観音の化身」として物語られたのがきっかけです。

    鎌倉時代になると、多くの仏教教団が太子を「日本仏教の祖」に位置付け、崇め追慕した結果、宗派や身分を超えて信仰が全国に広まりました。中世も後期に入ると太子を守護神とし、大工や左官などの職人集団の間で太子講が組織され、地域によっては神社の宮座などと共に、現代にも受け継がれています。

    今も斑鳩寺で毎年2月に行われる、太子ゆかりの「勝軍会」を忘れるわけにはいきません。「御頭会」あるいは単に「お頭」とも呼ばれる伝統行事で、太子が対立していた物部守屋を討伐するため、奈良県平群町の信貴山で四天王に戦勝祈願をした故事に由来します。地元で選ばれた4人の児童が四天王にふんし、聖徳殿に祭られる太子十六歳孝養像と対面して礼拝します。この行事は、太子の加護を得て子供の成長を願うもので、やはり太子信仰の一つの形と思われます。

    また、奈良期に聖徳太子領となり、平安期に法隆寺領となった斑鳩荘の水田には、碁盤の目のように区画した条里制遺構が見え、県の歴史的景観形成地区に指定されています。