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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年11月22日(日) 08時30分

    『中国行程記』から⑲楯岩城

    2020年11月17日(火) 放送 / 2020年11月22日(日) 再放送

    萩藩が残した絵図『中国行程記』を基にしたシリーズの19回目です。『行程記』は太子町太田の楯岩城にも触れています。2019年2月に取り上げましたので簡単に振り返ります。山の中腹を国道2号太子竜野バイパスのトンネルが貫く城山の頂上に楯岩城があります。登山道の途中には大きな岩がごろごろあり、城の名前の通り、盾のような岩が連なり、一部は石垣のように積み上げられています。大字地名に基づき「太田城」とも呼ばれます。海抜250メートルの山上の「楯岩城大山構跡」の立て札からすると、別の太田城の出城だったのかもしれません。江戸中期の『播磨鑑』によれば、後醍醐天皇の「建武の新政」の頃、1330年代に赤松円心の長男・範資の息子・赤松則弘(広)が太田城を築城したとしています。この則弘は、後に広岡五郎を名乗る広岡氏の祖とされます。

    1441年の「嘉吉の乱」で落城後しばらくして円心の次男・貞範の曽孫で、足利将軍の近習を務めた赤松貞村が居城し、130年ほど、5代にわたって続いたとされますが、1570年代の後半、秀吉の播磨攻めで落城したと思われます。江戸後期、小屋左次右衛門という姫路藩士が城跡に登って描いた見取図が残っており、現在のテレビ塔辺りが本丸で、南と西北に延びる尾根に、二ノ丸、三ノ丸を備えた、かなり大規模な山城と記しています。

    城山にある楯岩城について『行程記』は意外な情報を記しています。江戸中期の1763年から商都・大坂と安芸の広島、山口県長門の赤間が関の間に、相場をいち早く知らせるための「印狼煙(しるしのろし)」による通信が始まり、当地の城山にも番人が詰めているとあります。歴史的には「古代の狼煙通信」「近世の旗振り通信」はよく知られていますが、この頃にも狼煙通信があった事実を教えてくれます。大坂―広島間が2日、赤間が関までは3日で伝わったと言いますので、当時としては驚異的スピードだったでしょう。

    古代の狼煙通信で思い出すのは、2018年7月に取り上げた朝鮮式山城です。663年の「白村江」の敗戦を機に、対馬から北部九州、瀬戸内沿いに畿内まで多数造られました。海峡を越えて日本に攻めてくる危機は、敗戦の13年後、唐が朝鮮半島から撤退した676年ごろには無くなっていたにもかかわらず、多くの山城は維持されていました。逆襲される危機が去った後、四半世紀も「朝鮮式山城」が戦いに備えていたのは不思議です。

    朝鮮半島から畿内を目指す船団は備讃瀬戸を必ず通るため、挟み撃ちするのに岡山と香川の防衛拠点は理にかない、一連の古代山城は、律令制に基づく新国家を目指す「朝廷肝いりの拠点」でもありました。城と城の間隔が20キロ程度に保たれ、狼煙などの連絡・通信を意識していたのが証拠で、山城ネットワークが朝廷によって整然と構築されていたわけです。