『中国行程記』から⑳黒岡神社と石地蔵
2020年11月24日(火) 放送 / 2020年11月29日(日) 再放送
萩藩が残した絵図『中国行程記』を基にしたシリーズの20回目です。歴史的には怪しくても長く伝承される話が各地に残っています。人物は実在しても関連が薄いと思われる話と、人物そのものが架空で神懸かった大活躍をする話などのタイプに分かれます。太子町太田には、この2種類の話が伝わり、興味をかき立てられます。
『行程記』には、旧太田村の高札場近くに「太田の地蔵菩薩」と呼ばれる石地蔵が描かれています。珍しくはないのですが、西国街道を往来する旅人の安全を祈って建てられたと思われ、地元の人々が守ってきました。奈良・東大寺の大仏殿を建立した1人・行基の手に成る地蔵と伝えますが、全国で農業用水をはじめ、池や港を造成したとの話がこの村にも届き、地域の篤志家が作った地蔵が行基信仰の高まった頃「行基の作」となったのかもしれません。
その石地蔵の近くに「天神」の赤い鳥居と社殿が描かれているのは、黒岡神社でしょう。かつては、黒岡八幡や黒岡明神などとも呼ばれ、「天神」の呼称は、菅原道真が京都から大宰府に左遷される途中、ここに立ち寄ったとされる伝承からです。黒岡神社はほかにも、荒唐無稽と思われる藤原貞国という伝説上の人物が没後に祭られたと伝えます。境内には、墓とされる、横穴式石室を持つ周囲50メートルほどの円墳があり、県の文化財にも指定されているのですが、ご丁寧にも石棺のふたに「藤原貞国塚」と刻まれた石碑が建っています。
『峰相記』によれば、奈良時代の764年、新羅が播磨灘に2万隻の船で攻めてきた際、朝廷から将軍に任命された貞国が、網干の魚吹津から出陣し、見事に討ち果たして帰国しました。この軍功により、西播磨の5郡、つまり揖保・飾磨・赤穂・佐用・宍粟の各郡を賜り、太子町太田の楯鼓原に住んだと言います。
この貞国伝説は播磨各地に広がり、江戸時代の地誌が「とんでも話」満載で伝えています。例えば『増補播陽里翁説』では、貞国が討伐に当たり、初めて姫路城を築いたとしたり、姫路市総社本町の播磨国総社でお盆に行われていた「修羅踊り」は、貞国軍が凱旋帰国した様子を表すと言われたりしたのはその証しです。貞国は播磨国分寺など多数の寺社に戦勝祈願をしたとされますが、網干の魚吹八幡神社の武神祭に登場する「五色の鬼」は、貞国が立てた五色の御幣に由来するとされます。
こうした話は「鉄人伝説」と呼ばれ、西播磨にとどまらず、和歌山市市小路の伊久比売神社などにも、同様の話が伝わっています。異賊の侵攻と英雄による撃退のモチーフは、貞国伝説のほかにもあります。なお、同じ読みで貞国の「貞」の一字が「定」の藤原定国は、平安前期に実在した公家で別人です。
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