聖山城(上)
2020年12月22日(火) 放送 / 2020年12月27日(日) 再放送
宍粟市山崎町須賀沢出石の聖山城は、城がある小字地名の出石が気になります。但馬の豊岡市の「いずし」に対して、こちらの「いだいし」は恐らく「いでいし」がなまったものでしょう。聖山城は、出石地区を流れる揖保川左岸の海抜168メートルある愛宕山に築かれた山城で、『宍粟郡古城誌』によれば、初めて築かれたのは室町後期の1493年です。山城ネットワークからすれば、本拠・長水城の周辺防備のために造られた10カ所ほどの出城や構えの一つで、山頂の削平地に本丸があったと思われ、そのすぐ下に愛宕神社、さらに麓に篳篥神社が祭られています。
赤松氏の本家筋に当たる宇野氏の重臣・下村民部少輔則真の築城とされます。城郭の規模は小さいものの、尾根の突端に東西約12メートル、南北約9メートルの主郭を置き、北側斜面に帯曲輪、西側には腰曲輪を配して防備を固めています。また主郭東側に二ノ曲輪と三ノ曲輪を置き、東端に高さ2.6メートルの土塁を築いて、敵の侵入を防いでいます。主郭からは、宇野氏の本拠・篠ノ丸城と長水城への眺望が開けるところから、実際には「見張り台」的な城だったと考えられています。
江戸前期に成立した『宍粟郡守令交代記』などによれば、1577年、西国の雄・毛利氏を討とうと播磨に入った秀吉が、2年後の4月、対岸の篠ノ丸城と長水城に篭城する宇野氏を攻めるため、背後の高取山を越えてまずこの聖山城を落とし、本陣を置いたと言います。また『交代記』には、黒田官兵衛が「篝火に宇野(鵜の)首見せる広瀬かな」との発句を詠んだと記されています。
長水城主の宇野氏を、鵜飼いの「鵜の首」と表現し、さしもの堅牢な長水落も落城寸前の状態で、今も残る地名「広瀬」を眼下に見て、うまく詠み込んでいる秀作です。また長水城は、地名や一時代、広瀬氏が居城した歴史から広瀬城とも呼ばれた事実は、以前に述べた通りです。しかし、この句は本来、竹中半兵衛の子・重門が著した『豊鏡』に「連歌師の里村紹巴の発句」と記されているもので、果たして官兵衛の作かはおろか、長水城攻めに本人が参加していたかどうかについても真相は不明です。
- 『中国行程記』から㉓播磨十水
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