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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2021年1月3日(日) 08時30分

    聖山城(下)

    2020年12月29日(火) 放送 / 2021年1月3日(日) 再放送

    宍粟市山崎町須賀沢出石の聖山城は、揖保川東岸の堅木(かたぎ)山の尾根先に築かれた小さな山城で、愛宕山の別名・堅木山にあることから「堅木城」、あるいは山麓に鎮座する篳篥神社にちなんで「篳篥山城」とも呼ばれます。

    『赤松家播備作城記』によれば、聖山城は西北2キロほどの「篠ノ丸城の出城」だったと記されます。篠ノ丸城は長水城主の宇野氏一族が守った城でした。室町後期の1493年に聖山城が誕生した頃は、赤松氏が播磨守護職を務め、東部の8郡は三木城を本拠とする別所氏、西部の8郡を長水城の宇野氏が守護代の地位にあり、播磨のほぼ全域を赤松一族で固めていました。

    しかし、戦国も真っただ中に入ると、同じ一族でも利害が対立の末、分裂していきます。その前、赤松政則が本宗家を復活させた後は、姫路市夢前町の置塩城を根城としました。政則の庶子・村秀が龍野城主となり、置塩・龍野の両城主は協力しながら乱世を生きましたが、家臣の浦上氏の下剋上もあり、東から攻勢を強める信長・秀吉勢に対して無血開城し、以後は秀吉軍と行動を共にしました。

    長水城の宇野氏と三木城の別所氏も当初は、置塩・龍野の両赤松氏と同じく信長・秀吉に恭順を示していたのですが、後に毛利方に転じて秀吉軍と対峙しました。その結果、秀吉軍が1580年に攻略した聖山城を本陣として、まず篠ノ丸城を、次いで長水城を落城させました。宇野氏配下の武将らは密かに城を抜け出しましたが、増水した千種川に阻まれて自害し、宇野氏は滅亡に追い込まれました。

    揖保川を挟んだ西方すぐに篠ノ丸城、やや北方向には長水城が一望できる聖山城は、山陰に通じる因幡街道を押さえる要衝に位置し、山城としての好立地を改めて感じさせます。別名の篳篥山城の由来となった、麓の篳篥神社は播磨一宮である伊和神社の遥拝所で、朝鮮出兵をした神功皇后も参拝したと伝わります。

    しかし、なぜ篳篥なのでしょうか。平安時代に毎年、伊和神社で雅楽を演奏していた宮中の楽人が洪水のため揖保川が渡れず、仕方なくこのお社で奏楽することになった際、篳篥を忘れて困っていたところ、内陣から「吹かぬ篳篥」の音がして、無事お勤めを果たせた―との故事から「篳篥神社」と呼ばれるようになったと語り継がれています。