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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2021年1月10日(日) 08時30分

    塩田城

    2021年1月5日(火) 放送 / 2021年1月10日(日) 再放送

    宍粟市山崎町塩田にある塩田城は、赤松系本家筋の宇野氏の居城・篠ノ丸城の南麓を流れる、揖保川支流の菅野川を8キロほどさかのぼった所の小規模な山城です。菅野川右岸の海抜236メートルの尾根上ですが、もともとこの地が高所のため、麓からは50メートルほどしかありません。戦国時代中ごろ、地名を名乗る地元豪族・菅野氏によって築城されたとされ、今も土塁や石積み・堀切などが残っています。

    規模は小さくても、西側登城口から主郭へは険しい崖で、近寄り難い雰囲気を漂わせます。尾根の突端に本丸、東西約20メートル、南北36メートルの主郭を置いています。北側に高さ7メートルの土塁と石積みがあるばかりか、幅1.2メートル、深さ1.5メートルの堀切で二重に遮断して、尾根からの敵を防いでいます。さらに主郭南側の少し下に腰曲輪、北西側には帯曲輪を加えている点から防備の完璧さが感じられます。

    塩田城が立地する小字地名「政所(まんどころ)」は注目に値します。政所には意味が多数あり、「検非違使(けびいし)の庁」をはじめ、平安以降、親王や摂政らの家で、所領の事務や家政などを取り扱った所、さらには鎌倉・室町の両幕府では、財政や訴訟をつかさどる役所だったりしましたが、ここでは「現地荘園で支配の実務を扱った所」です。恐らく荘園の中心地で荘館があったのでしょう。

    山城配置の条件となる「交通の要衝」の点でも当地は適しています。ここは、南へ青木方面に向かう県道・塩田三日月線と、西へ葛根(かずらね)方面への山道が交差するのに加え、東へ峠を越えると、県道・岩野辺山崎線を経て本拠の長水城へと至るため、街道ににらみを利かす砦でもあったと思われます。

    菅野氏が塩田城を築城後、城主が小寺政職(まさもと)に変わりました。江戸中期の地誌『播磨鑑』は当時、黒田官兵衛の主君だった政職が1543年から2年間「塩田構居」に居城したと伝えています。小寺氏の遠祖の将則(まさのり)は、赤松氏初代の家範の父・則景の弟ともされる赤松一族で、小寺藤兵衛景治は山城・八幡の戦いで戦死したと『太平記』に名が見えます。戦国期に入ると、小寺則職が後期赤松氏初代の政則に仕え、子の政職の代には、政則の養子・義村と浦上村宗が対立したため、小寺政職は浦上氏を攻めましたが、義村が浦上氏に殺害された後、後期赤松氏3代目晴政の時代に塩田城主となりました。父・小寺則職から家督を譲られた政職は、姫路市御国野(みくにの)町の御着城に移りました。