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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2021年1月24日(日) 08時30分

    柏原城(下)

    2021年1月19日(火) 放送 / 2021年1月24日(日) 再放送

    柏原城は海抜約490メートルもの山頂付近にある西播磨有数の高さを誇り、防備もしっかりと施された点で重要な存在ですが、いまだに解けない謎が残っています。つまり、在地の宇野氏の拠点である長水城の枝城の一つか、それとも逆に、長水城を見張り攻略するために敵方の秀吉勢が構えた城なのか―との疑問です。

    まずは長水城を中心とする山城ネットワークの一つと考えます。誰がいつ築城したのかは分かりませんが、一時期、赤松系の早瀬帯刀(たてわき)正義が城主を務めていました。秀吉軍が播磨に侵入し、1580年に長水城を攻めた際、宇野氏の家臣である小林氏や春名氏らの武将の抵抗もむなしく、落城しました。この時、山中の天台宗長谷山(はせさん)遊鶴寺も戦火に遭ったとされます。

    柏原城主の早瀬正義は、政則に始まる後期赤松氏の4代目・義祐の弟で、上月城主だった赤松政範の従弟に当たります。秀吉が攻め立てた「第一次上月城の戦い」の際に立てこもり、1577年、上月城が落城した際、城主・政範らとともに没しました。とすると、同じ秀吉の攻撃により柏原城が落ちたのが1580年ですから、早瀬正義は既に3年前に亡くなっていたことになります。

    では、もう一つの説、柏原城が赤松一統の築城ではなく、長水城を攻撃する側の秀吉勢が建てたとすると次のような論法となります。昭和1963年に発行された『新宮町史第五巻』も採用している、たつの市新宮町牧の『金照寺縁起』に基づきます。「峯ヲ横ニ堀キリ、一夜ノ内ニ新城ノ形ヲ顕シ」とある文言は、山の峰を横に切り崩して堀切を造り、一夜にして新たな城が姿を現したとの意味です。同じ秀吉が、岐阜県大垣市墨俣町に1561年または66年に、短期間で築城したとされる「墨俣一夜城」を思わせる表現で興味深いですね。

    城郭研究家の山下晃誉氏は、柏原城と認知されている山城の遺構が、『播磨鑑』にある柏原城と同一である根拠はないとし、また『金照寺縁起』に記される「一夜城」が柏原城である根拠もないとしながらも、遺構が織豊期に造られた陣城、つまり「臨時に造られた城」の特色と一致するため、『金照寺縁起』にある「一夜の内に姿を現した城」だと結論付けています。もし柏原城とされる城跡が「秀吉側による、長水城を監視・攻略するための陣地」と見れば、それ以前に築城されていたはずの赤松方の柏原城は、一体どこにあったのかが気に掛かります。