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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2021年1月31日(日) 08時30分

    草置城

    2021年1月26日(火) 放送 / 2021年1月31日(日) 再放送

    宍粟市一宮町草木(くさぎ)草置(くさぎ)城へは、同市山崎町から国道29号を北上し、安積橋交差点から県道養父宍粟線に入り、国道429号に合流すると、百千家満(おちやま)に入ります。このまま国道行き、笠杉トンネルを抜ければ但馬の朝来市ですが、草置城は百千家満から国道を外れて東へ向かい、山道を上ります。

    播磨でも北東端で、但馬に接する地の城主は、それなりの出自があるようです。例えば、草置城の南西約10キロの宍粟市波賀町上野の波賀城は、播磨では少数派の赤松系ではない中村氏が長く城主を務めました。草置城も赤松氏との関係が薄く、『播磨鑑』によると、但馬の朝来市田路(とうじ)にある高倉城主・田路大和守胤直(たねなお)の嫡男・隠岐守胤純が1538年に築城したとされます。高倉城は海抜540メートルの高倉山の頂上にあり、大字地名から田路城とも呼びます。佐用町櫛田の高倉山城と混乱しますが、別の山城です。

    朝来市田路の高倉城の麓の祥雲寺に伝わる系図などによると、田路氏は千葉氏に仕え、千葉県北部と茨城県西部の下総国から故あって但馬に移って高倉城主となり、地名の田路氏を名乗りました。一説によると胤直あるいは諸胤(もろたね)まで6代続いたものの、1579年2月、秀吉に攻められて落城したと言います。祥雲寺には田路氏系図と胤直のものとする位牌、さらに寺の墓地には胤直夫妻の五輪塔2基、子孫が百回忌に建立した供養塔が残っています。

    千葉氏は桓武平氏の末裔で、下総国守護を務めた千葉常胤に始まると言い、田路氏も千葉流を示す九曜(くよう)を家紋に使っていました。九曜紋は、太陽と8つの惑星をかたどった図柄です。今も播磨西北部から但馬にかけて分布する田路氏の中には、武家を捨てて帰農した際に六曜にしたり、さらに梅鉢へと変えたりした一族もいます。草置城の南西10キロ余りの一宮町安積を本拠とする安積氏と共に、西播磨の守護代だった赤松系の宇野氏や広瀬氏に属していました。

    田路胤純が築城した草置城は、揖保川の支流・草木川が西へ大きく蛇行する地点の海抜602メートルの山頂にあります。2006年に完成した2階建ての摸擬櫓が入り口にあり、250段以上の階段状の遊歩道が山頂の削平地まで続いています。単郭山城で、山頂の主郭から北西・東・南の三方に延びる尾根には堀切が施されていますが、築城から500年近い年月の経過で、堀切は埋もれて浅くなっています。