三方城
2021年2月2日(火) 放送 / 2021年2月7日(日) 再放送
宍粟市一宮町三方町にある三方城は、近くの御形神社との関係から御形城や御形山城とも呼びます。一宮町草木の草置城の西わずか3キロ余りの立地から、三方城と草置城は互いに連携していたと想像できる通り、草置城主の田路胤純の次男・信濃守貞政が1555年に築城したとされます。しかし『赤松家播備作城記』では、さらに86年も古い1469年の築城とします。いずれにせよ、秀吉の播磨攻めにより1580年に落城し、廃城となった歴史に変わりはありません。
揖保川の支流の公文川と阿舎利川に挟まれた、南向きに張り出す海抜383メートルの尾根の突端に築かれています。東西約10メートル、南北22メートルの細長い主郭を中心に、周辺に帯曲輪が取り巻き、北側には深い堀切が設けられ、草置城とともに揖保川上流域と但馬への街道を押さえるのが目的と思われます。
三方城から公文川を挟み北東へ1キロ余りに位置する御形神社は、奈良時代の創建と伝える延喜式内社で、1200年以上の歴史を持ちます。祭神は本殿に葦原志許男神つまり大国主が祭られ、相殿には素戔嗚・高皇産霊・月夜見の神のほか天日槍が祭られているのは、やはり但馬が近い土地柄から「神同士のせめぎ合い」が感じられます。『播磨国風土記』にも地名由来が記される三方地区の総鎮守です。三間社流れ造りの檜皮葺き、朱を基調とする極彩色に彩られた現本殿は、戦国期の1527年の造営で国の重文です。
主祭神の大国主は当初、高峰山にいて、地元に加え但馬の一部も開拓したのですが、その途中、朝鮮・新羅国から天日槍が渡来して、国争いが起こった結果、天日槍は但馬の出石神社の祭神となりました。大国主は国造りを終え三方を去るに当たり、愛用の杖を形見として、山の頂に突き刺して行在の印としました。残された杖の場所に社殿を建て、形見代・御形代から御形神社となりました。
その際、一夜に3本の大杉が森にそそり立つ夢を見た里人は「神が遷座を所望している証し」と捉え、社殿を造営したのが、現御形神社だと言います。その御神木が「夜の間杉」として今も境内にそびえ、樹齢600年以上と推定されます。境内には兵庫県固有種で宍粟市天然記念物の「正福寺桜」があり、半しだれで親木が弱ると枝分かれして春には八重咲きの美しい花を咲かせます。