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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年11月11日(日) 08時30分

    波賀城と狭戸山城

    2018年11月6日(火) 放送 / 2018年11月11日(日) 再放送

    今回は宍粟市波賀町の波賀城と狭戸山(せとやま)城です。これまで30回以上にわたり、西播磨南部の山城を取り上げてきましたが、これからしばらく北部の宍粟市を重点に見ていきましょう。最初の「波賀城」とその前身の「狭戸山城」は、今までと違う点が1つあります。それは「赤松氏とは関係が薄いこと」です。

    では一体、誰が城を築き、拠点にしたのかを追究する前に、場所や高さを整理します。現在は宍粟市として合併した4つの町の一つ、波賀町の中心部・上野から東寄りの尾根の頂上に波賀城があります。南に下る揖保川の支流・引原川の東岸にそびえる、海抜458メートルの城山の頂ですが、麓からは200メートルほどの高さですので、「そそり立つ」ほどではありません。

    この立地は、今でこそ宍粟市の扇のかなめの山崎町から北へ16キロほど離れている、のどかな山間で、西播磨最北にありまして、さらに北へ行くと、引原ダムの「音水湖」が控えています。しかし、地理的には、北へ鳥取に至る因幡街道が通り、東には山越えで但馬国、西へは宍粟市千種町から、岡山県の美作国に通じる交通の要衝として重要でした。

    こうした街道の交差点であるが故に波賀城が築かれたと思われます。さらに古く『播磨国風土記』にも波加(はか)の村として記されていることから、播磨国の支配者が北方への守りを固めたのでしょう。中世になると、荘園の管理者として地頭が置かれるようになり、その地頭が土着したのか、あるいは地元の豪族が力を付けたのかは定かではありませんが、そんな1人が波賀城を築城したと想像できます。

    しかし、築城当時の様子が知れる同時代の文書はありません。頼りは、後の城主だった中村氏の文書や山崎町の大庄屋だった片岡醇徳が江戸中期の1708年に著した『播陽宍粟郡志』と、それ以降の物となりますので、およそ500年近くも前の出来事がどこまで正確に記されているのかは疑問です。そうした不備を鎌倉幕府の歴史書『吾妻鑑』で補強すると、伝説に近い築城主「波賀七郎」なる人物の実像がおぼろげに見えてきます。名前は芳しいに賀正の賀で「芳賀」とも書きます。

    源頼朝が実質、鎌倉幕府を開いた頃1189年には、一族と見られる波賀次郎なる人物が頼朝の軍勢に加わって軍功を上げ、「旗二流れ」の栄誉をもらっている事実が分かっています。この波賀氏が現在の波賀町辺りの荘園の管理人「荘官」で、徐々に勢力を拡大して豪族となり、波賀城を築いたのではないかと思われます。ただ、最初の城は、今の波賀城の西にある狭戸山(せとやま)城とされています。