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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年11月25日(日) 08時30分

    波賀城(中)

    2018年11月20日(火) 放送 / 2018年11月25日(日) 再放送

    今回は、宍粟市波賀町上野にある「波賀城(中)」です。西播磨の山城では珍しく、赤松氏との関係が薄い人物が城主を務めました。最初は波賀城の西側にある狭戸山(せとやま)城が造られ、ここに地頭の波賀氏が入り、3代続いたと思われます。次に着任したのは、関東の秩父からやって来た中村氏ですが、地頭が交代するいきさつが「馬隠しの伝説」となって語られます。

    地頭の波賀七郎は名馬を持っており、飛ぶが如く走り、一日で京へも行けるほどでした。名声は京にも届き、1261年、これを聞き及んだ天皇がこの馬を召されましたが、七郎は拒否。ついに勅使まで派遣される騒ぎとなった時、七郎は山の洞窟に馬を隠し、「馬は死んだ」と答えました。勅使は仕方なく都に帰りかけた時、馬のいななきがとどろきまして、隠していたのが発覚しました。朝廷は、中村家泰という武将に命じて追討軍を発しました。波賀氏は2度の戦いに敗れ、名馬を解き放って討ち死にしたと伝えています。

    この伝承は、波賀氏が失脚した後で、中村氏が新たな地頭に着任したことを物語ると解釈されています。「馬隠し」の一件で波賀氏は地頭と城主を追われましたが、この後も、播磨北部の小さな豪族として戦国時代まで生き延びています。

    波賀氏から代わった中村氏は、波賀城を根城として地侍的地位を確立しまして、以後20代にわたり350年以上も続いた後、秀吉による播磨攻めで波賀城は落城したとされます。波賀氏から受け継いだ中村氏について詳しく追いましょう。江戸中期の元禄年間(1688~1704)に剣持一愚斉源長視が編んだ『赤松家播備作城記』には、中村右馬允(うまのじょう)光時が初めて波賀城を築いたとしています。

    その中村光時が波賀にやって来たのは、承久の乱(1221)の後とされます。この後、中村氏は時広・宗広・時基と続き、中村三郎左衛門吉宗を最後に波賀城は落ちてしまいます。こうした記録からすると、中村氏の前の城主である波賀氏の時代は、狭戸山城におり、中村氏が入ってから波賀城が築城または、山城として本格的に機能し始めたようです。

    20代にわたって波賀城主を務めた中村氏は、見事なサバイバル力を見せます。別の説では、早くから秀吉側に付き、本拠を引原川西側の有賀城に移した後、波賀城を廃棄したとされます。中村氏は秀吉の九州攻めにも参戦し、江戸時代には、ちゃっかり姫路城主の池田輝政に「郷士格」で仕えます。次いで輝政の四男・池田輝澄が山崎藩主に就任すると、家臣になったようで、60年ほど後の家臣名簿に「50石 有賀村地侍 中村九郎左衛門」と記されています。20代も続いた元城主としては低く見られたような気もしますが、戦国を生き抜いたのは立派と言えますね。