宇野氏一族の興亡
2018年12月4日(火) 放送 / 2018年12月9日(日) 再放送
今回は「宇野氏一族の興亡」です。4回にわたり考察しました宍粟市波賀町の狭戸山城と波賀城は、西播磨には珍しく赤松氏系ではありませんでしたが、今回から取り上げる、宍粟市山崎町宇野の長水城は、赤松氏に関係が深い「宇野氏」が拠点とした点で極めて重要です。
さて、このシリーズでは一度だけ宇野氏が登場しました。「嘉吉の乱」で一時、逼塞した赤松氏を復活させた赤松政則の、側室の子・村秀が養子に出された先が宇野家でした。当時、宇野氏はたつの市室津町にあった塩屋城主でした。その村秀は、後に龍野城主となり再び赤松氏を名乗って、以後、政秀―広貞―広英(秀)と「龍野赤松家」が4代続きました。
では、そもそも長水城を本拠とした宇野氏とは、どんな家系で赤松氏との関係はどうなのでしょうか。はっきりしない点はありますが、伝承を整理すると、次のようになります。
宇野氏は、村上天皇から出た「村上源氏の末裔」と称しましたので、その点では赤松氏と同じ系統です。山田入道頼範の息子・将則(為助とも)が宇野氏の直接の祖とされます。その宇野将則は最初、現在の佐用町米田付近の宇野荘を拠点として、宇野氏を名乗りました。やがて力を付け、鎌倉時代初期の1193年には宇野頼景(則景とも)が佐用荘の地頭となり、源頼朝の正室・北条政子の弟・義時の娘をめとった時点で、格が上がりました。
そして、宇野氏側からの見方では、ここで赤松氏との関係が出てきます。つまり、宇野頼景の息子が「赤松氏の祖」である赤松家範だと言うのです。赤松氏の系図では、家範の父は源則景と言い、佐用荘の地頭に任命され、赤松村に赴任したのを機に土着し、息子の家範が赤松氏を名乗ったのが赤松氏の始まりとしています。
赤松家範の父の名は、宇野頼景なのか、源則景なのか、名前も「よりかげ」「のりかげ」と似ており、今となっては判定できません。もし宇野頼景が赤松氏の祖・家範の父だとすれば、赤松氏は宇野氏から出たことになり、宇野氏が本家となります。
ともあれ、その後の宇野氏を追いましょう。赤松氏の祖・家範の曽孫である赤松円心が挙兵すると、宇野氏もはせ参じ、以降は赤松氏の家臣となり、山名氏が室町幕府に対して起こした反乱「明徳の乱」にも参加しました。幾つかの手柄を上げた宇野氏は、円心の三男・則祐の息子・赤松義則の時代に西播磨の守護代に任じられ、全盛期には8つの郡を宇野氏が支配しました。しかし、戦国の世となってからは、同族でありながら、宇野氏と赤松氏は決別しますが、その話は次回に回します。