茶臼山城と坂越浦城
2019年3月5日(火) 放送 / 2019年3月10日(日) 再放送
今回は、茶臼山城と坂越浦城について補足をします。坂越浦城は、赤松氏残党が茶臼山城に攻め入る前年1454年、山名氏が現在の相生市の矢野荘から人や資材を駆り出して築城したとの記録があります。赤松氏の動きを察知していたかのような築城ですが、茶臼山と坂越浦の2つの城によって「赤松残党の反撃」を阻止したことになります。
しかし別の『嘉吉記』や『群書類従』には、赤松氏残党の反乱は、現在の姫路市と太子町の間にある鵤荘檀特山に立てこもって、播磨を山名氏から取り戻そうとした戦いでしたが、「敗れて自害した」とあるだけで、坂越での戦いには触れていません。嘉吉の乱でいったん赤松氏が滅びたとはいえ、播磨各地に潜んでいた残党が、鵤荘から波及した坂越での戦いで山名氏と戦ったものの、結局、赤松一族は2度とも敗れてしまったということでしょうか。
その後、龍野古城の城主だった赤松村秀が坂越浦城を「通い城」として坂越を支配したとされ、江戸時代には、展望台前の小高い所に赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていたと言います。しかし、頂上の茶臼山城のその後は分かりませんが、恐らく戦国時代が終わる頃には、廃されたものと思われます。
嘉吉の乱の後、但馬から南下した山名氏との戦いで追い詰められ、現在の岡山県備前市の鹿久居島で自害した、赤松満祐の弟・祐尚の子・赤松則尚らの首は、赤松氏の菩提寺である上郡町苔縄の法雲寺で、山名宗全による首実検で確かめられました。以後、茶臼山城がどうなったのか、いつ廃されたのかについては、はっきりしません。
坂越浦城は、「坂越浦砦」または「坂越城」とも呼ばれますが、ここを「通い城」としたとされる赤松村秀という人物を改めて復習しておきましょう。赤松氏を復興させた赤松政則の養子となった「義村の子」で、「晴政の兄」とする説などもあり、ややこしいのですが、ここでは、村秀の父を赤松政則とします。
とすると、村秀の祖父は赤松時勝(別名性存)で、曽祖父は、あの嘉吉の乱を起こした満祐の弟・義雅、義雅の父に当たる高祖父は義則、さらにその義則の父は、村秀から数えて5代前となり、円心の次男則祐までさかのぼることができます。
一時は摂津・播磨・美作の3国を支配し、栄華を誇った赤松氏も、満祐が起こした乱のために山名氏の支配下に入った播磨で、赤松政則の活躍で再び勢いを取り戻し、海ににらみを利かす坂越浦城主にも復帰を果たしました。