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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年9月15日(日) 08時30分

    苔縄城(上)

    2019年9月10日(火) 放送 / 2019年9月15日(日) 再放送

    今回は上郡町にある苔縄城です。先に、江戸時代、三日月藩領だった上月出身の幕末の志士・立石孫一郎を取り上げ、同じ千種川流域でも立場が逆の幕府軍幹部だった大鳥圭介にも触れました。しばらくは、その大鳥の出身地である上郡町を舞台に、再び時代を中世に戻して、赤松一族の動きを見ていきましょう。

    赤松氏は則景の末の息子・家範が土着した地名から初代が始まりました。赤松家範の曽孫に当たる円心が中興の祖となり、飛躍します。きっかけは、後醍醐天皇に味方して足利尊氏らと共に鎌倉幕府を倒し、「建武政権」を打ち立てたことです。ところが、貢献の割にはあまり評価されなかったため、同じく割を食っていた尊氏と組んで、反旗を翻しました。戦いの過程で円心が、建武政権方の新田義貞の軍勢を迎え撃ったのが、赤松氏の本拠だった上郡町赤松の白旗城でした。1336年のことですね。

    足利尊氏と建武政権との戦いは、天皇方の楠木正成の活躍もあって、足利勢はいったん九州に引き下がります。態勢を立て直して再び京へ攻め上る計画でしたが、新田勢が大軍を率いて攻めてきました。そこで新田軍を足止めさせたのが、白旗城でした。こうした状況を予測して、円心の手配で三男の則祐が白旗城を築いたとされます。円心の計算通り、新田軍は白旗城を包囲しましたが、50日余りの籠城を攻め切れませんでした。円心・則祐の親子は尊氏への援護射撃役と防波堤になった軍功により、円心は室町幕府の播磨守護職に任じられました。

    この白旗城と見事に連携したのが、相生市矢野町の感状山城と上郡町の苔縄城です。城の名前が、古い地名による「瓜生城」から感状山城に変わったのも、手柄の証明である「感状」をもらった事実が基になっています。

    さて、苔縄城です。白旗城の西約3キロにありまして、智頭急行苔縄駅からは北西へ900メートル。苔縄集落の西にそびえる海抜411メートル、愛宕山の東の峰にある愛宕神社辺りとされます。三方に山が続き、東側の山麓を千種川が流れておりまして、旧因幡街道も並行して南北に走っています。ふもとからでもかなりの高さがある上、旧坂で山頂までは幾つもの岩場が行く手を阻みます。まさに「要害の地」として山城の絶対要素を備えています。

    そんな苔縄城なのですが、山上にはっきりとした城郭遺構が無いため、一説に麓の法雲寺、あるいは今は廃校になっている旧赤松小学校辺りに城があったのではないかとも言われます。詳しくは次回以降、同じく山城ネットワークとして機能した、南側の駒山城と併せてお話いたします。