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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年11月10日(日) 08時30分

    高田城

    2019年11月5日(火) 放送 / 2019年11月10日(日) 再放送

    上郡町高田奥の高田城です。前回の別名城にも共通しますが、高田城もよく分からない山城の一つです。こちらの一番の特徴は、「またの名」が非常に多く、漢字の違いも入れると、5種類も呼び名があります。高田城に始まり、抜石山城、西条山城、西条の「じょう」は、法律の「条文の条」と「お城の城」があり、新山寺(しんざんじ)城が加わります。

    この城の標準名通り、高田集落の奥八幡神社の裏にそびえる海抜359メートルの頂にあります。ただ、麓からだと260メートルぐらいの比高に縮まります。ご多分に漏れず、築城年代は定かではなく、鎌倉時代後期、高田兵庫輔祐長(すけなが)という武将が築いたと云わります。『太平記』には1333年1月に赤松円心が兵庫輔の城を攻め落としたとあり、これが高田城とされます。

    また、知らない者が登場しました。残念ながら高田兵庫輔なる武将の名は、数ある西播磨の山城の築城者と思われる人物リストにも、高田城以外に見当たらないため、お手上げです。円心が攻めた事実から赤松系ではない土豪でしょうか。築城当初の様子も分からず、現在見られる遺構は200年近くも後の戦国時代のものと思われます。

    ただし、高田城の規模はかなり大きく、最も高い所にある主郭をはじめ、南西下の第二曲輪、そして南尾根の山腹にある第三曲輪と、合わせて三つの曲輪群から構成されます。残念ながら主郭の遺構の一部が失われ、林道付設のためか北の背後の大堀切があったと思われる所が切り崩されており、山腹に竪堀がわずかに残るにすぎません。

    主郭の南西下へ、海抜で20メートルほど下がった所が第二曲輪になっていて、北側面を巡る大きな横堀が際立っています。腰曲輪や大きな堀切もあります。南尾根の海抜360メートル辺りに第三曲輪があるのですが、こちらは規模が小さく、上下2段に分かれています。麓の奥八幡神社辺りが「御屋敷」と呼ばれることから、山頂が「砦」の機能を持つのに対して、麓は日頃の住まいである「居館」と思われます。

    この高田城へは、奥八幡神社の西から北の方へ、谷あいを入っていくのですが、今は無い鉄塔を建てる際に整備されたと思われる林道が役に立ちます。ただし、林道先の広場を経て鉄塔跡の上にある第三曲輪までで、この先には、きちんとした道が無いため注意が必要です。

    上郡町の山城は、赤松にある白旗城をメインに苔縄城、駒山城、大聖寺山城、別名城、高田城と順に見てきましたが、ほかにもまだあります。船岩(ふないわ)・千軒屋・大枝・柏原(かしはら)西方(さいほう)寺・天王山(てんのうさん)・別所・上の山城など8カ所以上残っていますので、改めて山城の奥深さを知らされます。