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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年12月1日(日) 08時30分

    光明山城と下土井城

    2019年11月26日(火) 放送 / 2019年12月1日(日) 再放送

    相生市竜泉町とたつの市揖西町小犬丸との境界にある光明山(こうみょうせん)城の2回目です。まともな記録に乏しいため、はっきりしたことは言えませんが、伝承によると、1336年、後醍醐天皇の建武政権方として新田義貞軍が攻めてきた緊急事態に対処するため、赤松円心が、この地の山岳寺院を急いで改築して山城に転用したと思われます。

    円心の命令で初代城主となったのが海老名景知(かげとも)です。海老名氏は、今の神奈川県海老名市で勢力を張った豪族でしたが、同族の争いで分裂し、1104年、海老名家季が今の相生市那波に移って「播磨海老名氏」の祖となり、下司や地頭職を得て、赤松円心に仕えます。建武政権に反旗を翻した足利尊氏に呼応した円心に、海老名氏も従いました。

    円心が光明山城を建てた1336年、播磨海老名氏7代目の景知が、弟の詮季(あきすえ)らと、上郡町の白旗城に立てこもり、赤松軍として新田軍と戦い、戦功を上げました。ところが、当時城主を務めていた、相生湾奥の大島山城は、海の入り江を堀としたユニークな要害でしたが、海老名景知らが留守の間に新田勢に焼き落とされてしまいました。

    海老名氏に次ぐ光明山城の城主は、宇野重氏とされます。宇野氏と言えば、赤松氏の本家筋に当たり、初代赤松家範の父・則景も宇野氏を名乗っていまして、一説によると、則景の長兄・為助から数えて7代目が宇野重氏で、世代的には円心の孫の代あたりでしょうか。光明山城の城主はさらに変わり、赤穂郡の豪族・内海氏や龍野古城の城主で、たつの市室津の室山城に夜襲をかけて浦上氏を滅ぼした赤松政秀も一時、この光明山城にいたとされます。

    光明山城から西へ3キロ余り、相生市若狭野町に下土井城があります。下土井の「井」は地名と同じ井戸の「井」のほか、住居の「居」とも書きます。高さは海抜約130メートルで、麓からだと90メートルほどしかありませんので、山城としては小ぶりです。太田林山城とも呼び、岡城の別名もあります。こちらは、鎌倉時代前期の1267年に、岡豊前守が矢野川と小河(おうご)川とが合流する三角地形にある小高い丘の上に築城し、12代にもわたり代々、岡氏が城主を務めた歴史的事実からの呼称です。

    一般的に山城は、江戸時代のような「権威の象徴」ではなく、まさに「戦いのための防衛拠点」そのものなのですが、この下土井城に限っては「攻防が一切なかった」とされています。その結果、城主が一度も変わらず12代も続いたのかもしれません。岡氏については次回詳しくお話いたします。