若狭野陣屋
2019年12月17日(火) 放送 / 2019年12月22日(日) 再放送
相生市若狭野町の若狭野陣屋です。播州・赤穂藩の初めは池田氏2代が治め、浅野家3代56年の後、永井家1代を挟み、廃藩置県まで12代165年にわたり森家の時代が続きましたが、赤穂義士の浅野家以外の知名度は極めて低いのが実態です。
そんな赤穂・浅野家に、旗本として本家を支えた三つの分家があった事実はあまり知られません。今回の若狭野・浅野家と、家原・浅野家、浅野大学家の3家です。家原・浅野家は1617年、赤穂・浅野家初代の浅野長直の次男・長賢が、加東郡内の11カ村3500石を分地され、加東市家原に陣屋を置きましたが、今は跡形もありません。この家原・浅野家では幕末に浅野長祚が浦賀奉行や京都西町奉行などを務める切れ者でした。
浅野大学家は、藩主・浅野長矩による江戸城刃傷事件に連座して、長矩の弟・浅野大学が持っていた赤穂新田3000石の所領をいったん召し上げられましたが、討ち入りの8年後1710年、大幅に減封されて、千葉県の房総半島南端にある複数の村、計500石に移されました。旗本の身分で、長直系浅野家として続きました。
さて相生市若狭野に陣屋を設けたのは、大石良雄の大叔父、「祖父の弟の長男」、つまり「父の従弟」に当たる長恒で、1671年のことでした。大石長恒の母が赤穂藩主・浅野長直の娘だったため、長恒が浅野本家の養子となりまして、若狭野12カ村3000石を分知され、旗本・浅野長恒として陣屋を構えました。
この陣屋は、若狭野公民館の西、須賀神社の参道入り口近くに今もあって、領内だけで使える「旗本札」を印刷していた「札座」の建物「法界庵」が残り、陣屋門は相生駅の東側にある西法寺に移築されています。地味な江戸期の陣屋、特に小ぶりの旗本陣屋は、全国的にもほとんど残っていません。その点、老朽化が激しいとはいえ、敷地がそのまま残る若狭野陣屋は貴重です。現状は崩壊寸前ですが、3000石の旗本宅としては立派で、もともとは約1600平方メートルの敷地に6部屋を持つ本宅をはじめ、内庭や門・倉庫・馬屋・武器庫などがありました。
若狭野・浅野家は赤穂事件以後、本家に連座して「遠慮」を申し付けられ、伊勢・山田奉行を辞任に追い込まれますが、事件のほとぼりが冷めると、再び幕府の上級役人となり、数々の役職を歴任していきます。一方で、赤穂藩主・浅野長矩と義士らの復権を嘆願し、懸命に名誉回復を図ろうとする、涙ぐましい姿が、残された古文書からうかがえます。