CRKラジオ関西

  • radiko.jp いますぐラジオ関西を聴く

山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年1月12日(日) 08時30分

    鍋子城と八幡山城

    2020年1月7日(火) 放送 / 2020年1月12日(日) 再放送

    赤穂市東有年にある鍋子城と八幡山城です。一つの山城に複数の呼び名があるのは、ごく普通です。しかし、別名が近くの城と同じでは、訳が分からなくなります。鍋子城と2キロ足らず北にある八幡山、それに八幡山から千種川を挟んで東へ1.5キロ余りの小鷹山も含め、3カ所とも海抜200メートル前後の厄介な山城ですが、何とか混乱解消に努めたいと思います。

    谷口城、中山城とも呼ばれる鍋子城は、赤穂市立有年中学校の南に位置する山の頂上付近にあります。ご多分に漏れず、築城時期などは不明ながら、『岡城記』には、1500年代後半の天正から文禄年間に岡豊前守が城主を務めた旨が記されています。ただ『播磨鑑』には、居住者として岡氏のほか、小河(おうご)丹後守や富田(とだ)(=戸田)右京の名も見えますので、かなり変遷があったようです。

    鍋子城には別名がいろいろありますが、代表的ながら混乱の元となったのが大鷹山城です。というのは、鍋子城の北にある八幡山城も同じ大鷹山城の別名があるからです。伝承によると、鍋子城にいた富田氏が北の八幡山へと移った際、鍋子の別名をこちらの八幡山城にも使ったからだと言います。

    八幡山城は、地名から有年城、あるいは有年山城とも呼ばれるのはまだいいとしても、鍋子城にも八幡山にも大鷹山の別名があるのは混乱して当然です。ネット上の山城紹介記事に、よく二つの城がチャンポンになっているのもうなずけます。誤解を避けるため、この放送では大鷹山城の呼び名は原則、使いません。

    千種川から支流の矢野川が分かれる辺りの西側に位置し、有年中学校の北西、有年小学校の東にある八幡山城は、本郷掃部守(かもんのかみ)直頼という武将が1300年代半ばの貞和(じょうわ)年間(1345~1350)に城主となり、後に富田(とだ)右京が入ったものの、本郷氏の入城から200年ほど後の1543年、浦上宗景に攻められて落城します。後に修復されたのでしょうか。1578年、宇喜多直家のとき、上郡町の駒山城と共に上月城攻めの軍事拠点となり、八幡山城には宇喜多氏の家臣・明石飛騨守を配したと伝わります。

    初めて登場する本郷直頼とは、赤松円心の長男・範資の三男で、本郷氏の祖とされます。赤松本家から離れた者は、多くが本拠とした地名を新たに名乗りますので、本郷直頼は旧上月町の佐用町本郷の本郷城、あるいは旧三日月町の佐用町上本郷にある大内谷山城辺りを根城にしていたものと思われます。江戸時代には姫路藩主の池田家に仕えた後、転封に伴い鳥取藩士となったとされます。