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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2020年5月10日(日) 08時30分

    梶山城と肥塚氏(上)

    2020年5月5日(火) 放送 / 2020年5月10日(日) 再放送

    たつの市揖保川町市場にある梶山城です。市の東部を南北に貫く揖保川は「母なる川」と慕われています。梶山城は、その揖保川の下流域を押さえる肥塚氏の居城でした。今回は、梶山城と、現在もたつの市と姫路市に多く見られる肥塚(こえづか)氏について探求いたします。

    梶山城は、播磨灘から北へ4キロほど上がった、揖保川下流域の西岸すぐの所にあります。表記は、木偏に尾っぽの「梶」のほか、加える「加」に明治の「治」と書く「加治山」もあります。海抜83メートルほどしかないため、一般的な山城の基準の200メートルには全く足りません。

    伝承では1392年に赤松七条家の赤松治部少輔(じぶしょうゆう)教弘が築城したとされます。いきなり赤松教弘と言われてもピンと来ません。赤松円心の長男・範資の系統を七条家と言いますが、その範資の曽孫に当たります。赤松七条家の4代目・教弘から、息子の教久が家督を相続したものの18歳の若さで亡くなります。

    梶山城築城から50年近く後の1441年、嘉吉の乱でお家の急を聞きつけ、たつの市新宮町馬立の城山城に馳せ参じた赤松方119の武将の中に「揖東郡梶山城主・赤松左京允(さきょうのじょう)教久」の名があります。恐らく城山城で戦死したものと思われます。

    梶山城を築城した赤松教弘が生前、1.5キロほど西の伝台山(つだいさん)城に移った後は肥塚頼房が梶山城に入り、以後、肥塚氏が数代にわたってここを根城としました。しかし1556年、祐忠(すけただ)の代に、太子町太子にあった楯岩城の広岡五郎に攻められ、落城したとされます。

    攻め手の「楯岩城の広岡五郎」とは、円心の長男・範資の末に近い息子・則弘(広)のことで、後に広岡五郎を名乗り広岡氏の祖となりましたが、どう考えても年代が合いません。つまり広岡五郎の方が200年余りも古いのです。ひょっとして5、6代も後の世襲名かもしれません。ともあれ、梶山城が落城後は龍野赤松氏配下の円(丸)山河内守秀喜が城主となり、天正年間の初め1570年代に廃城になったと言います。遺構として尾根筋に多数の曲輪が残っています。

    梶山城の城主を数代にわたり務めた肥塚氏とはどんな武将でしょうか。現在、たつの市と姫路市内に多い名前ですが、播磨では、たつの市御津町を中心に分布し、「並び矢紋」を家紋に持つ家と、姫路市の広峯神社の神職で御師(おし)を世襲した「橘紋」の家との2系統に分かれます。御津町中島出身の代議士で、明治・大正期に活躍した自由民権運動家・肥塚(りょう)は、たつの市の小学校社会科副読本『郷土の発展につくした人たち』にも掲載されています。武将・肥塚氏の末えいかもしれません。