基山城
2020年9月1日(火) 放送 / 2020年9月6日(日) 再放送
これまで10回にわたって、萩藩の絵図『中国行程記』を基にして歴史絵巻を見てまいりましたが、今回からいったん外れて、まず揖保川下流域西岸に位置する山城を見ていきましょう。まずは、たつの市御津町黒崎の海岸にそそり立つ海城・基山城からです。と言っても海抜63メートルしかありませんので、同じ御津町の海岸に立つ海抜53メートルの室山城に似ています。
さて、この基山城は14世紀前半の元弘年間(1331~34)に赤松円心の弟・光則(光村)、あるいはその息子の敦則が築城したとされますが、当然、命じたのは円心でしょう。時は、後醍醐天皇を担いで鎌倉幕府を倒そうとの機運が持ち上がった頃です。『太平記』には、皇子・護良親王に仕えていた、円心の三男・則祐が、親王の発した令旨を持ち帰ったのを機に、円心は苔縄城に一族を集めて挙兵したと記しています。基山城も、戦いに備え西播磨各地に造られた多くの山城の一つでしょう。
赤松系武将の中で光則は初めての登場ですが、円心の弟の1人です。円心の弟は、末っ子と思われる円光が知られます。円光は別所氏を名乗り、孫の敦範が佐用町にある利神城の初代城主となります。さらに数代後の別所則治が初代三木城主となり、弟・光則の孫・治定が佐用別所氏です。三木城主4代目の別所長治は、秀吉の干殺しに遭って滅ぼされてしまいました。別所則治の弟も名は光則でややこしいのですが、円心の弟の光則とは別人です。
そんな円心の末弟・円光の兄・赤松光則が萩原孫三郎と称したことに萩原氏は始まります。以下、萩原氏の系譜をたどりましょう。光則の嫡子・敦則は、萩原孫四郎とも称し、基山城から東へ1キロほどと近い武山城の主となります。1331年に始まる「元弘の乱」で活躍し、敦則の後、敦之-基平と続き敦則の曽孫・基定は、赤松則祐の長男・義則の配下で数々の手柄を挙げました。その軍功により領地を拡大したものの、義則の長男・満祐が起こした「嘉吉の乱」に際しては、満祐の弟・赤松義雅に従いましたが、立てこもった、たつの市新宮町の城山城で一族郎党もろともに自刃しました。
萩原氏初代の孫三郎光則から数えて5代目の基定は城山城で果てました。しかし、生き残った嫡子・基知は須賀次郎左衛門を名乗りました。嘉吉の乱で没落した赤松氏を再興した赤松政則に従い、基知の息子・知之は1511年、京都市北区の「船岡山の合戦」で討ち死にしました。須賀氏の残党は代々、姫路市夢前町の置塩城を根城にしていた政則に始まる後期赤松氏に従いました。また須賀知之の弟・知常は鯰尾大次郎を名乗り、嘉吉の乱後、はやり赤松政則に仕えました。鯰尾大次郎知常の息子・秀繁は新たに藤尾氏を名乗り、船岡山の合戦で功を挙げて活躍しました。