『中国行程記』から⑰斑鳩寺
2020年11月3日(火) 放送 / 2020年11月8日(日) 再放送
萩藩が残した絵図『中国行程記』を基にしたシリーズの17回目です。西国街道を西から東へ揖保川を渡り、さらに林田川を越えると斑鳩寺と共に栄えた太子町の鵤宿です。参勤交代の大名らも本陣に泊まった宿場ではありましたが、あくまで門前町で宿駅の機能が無かったのは、『行程記』にもわざわざ「駅にあらず」と記している通りでした。
しかし、鵤宿のにぎわいぶりは、江戸期に訪れた多くの旅人が書き残した文章からうかがえます。例えば、1802年に愛知県西部の尾張の商人・菱屋平七の『筑紫紀行』に「いかるがの村、人家十文字に町をなして五、六百軒あり、入り口に聖徳王寺あり、寺内に三重の塔あり、門前に茶屋多し」。斑鳩寺が聞き慣れない聖徳王寺としたためているのも歴史を感じさせます。また、江戸前期の福岡藩の儒者だった貝原益軒の『東路記』にある「町はきれいな家が多く、豊かな商家ばかりだ」という記述を見ても繁栄ぶりがうかがえますが、幕末になると徐々に寂れていきました。
では町の発展の礎となった斑鳩寺の歴史をたどりましょう。伝承によれば、606年に聖徳太子が推古天皇に法華経を講義して、播磨国揖保郡の土地360町歩を賜ったのを機に、斑鳩(鵤)荘と命名し、伽藍一つを建立したと伝えます。しかし、史実的には平安中期の1039年ごろの創建と考えるのが自然で、太子が帝に法華経を講義した年に奈良県生駒郡斑鳩町の大和・斑鳩宮から当地に移ったとする伝承には疑問が持たれています。
創建については新旧の説に430年以上の開きがありますが、11世紀中頃には七堂伽藍のほか数十の僧坊を誇る大寺院となっていました。しかし室町後期の1541年4月、戦火によりことごとく灰燼に帰しました。この戦いを漠然と「赤松氏と山名氏の争い」としたり、具体的に「尼子政久の播磨侵入後の混乱」としたりする表記も見られます。しかし、尼子政久は、その23年も前までに没しているため、あり得ません。恐らく政久の嫡男・尼子晴久が播磨に攻め込んできた戦禍と思われます。
後に龍野城主・赤松政秀とその子・広英(秀)、さらには、たつの市誉田町福田笹山にあった楽々山円勝寺の昌仙法師らの発願で徐々に復興への道をたどります。聖徳宗総本山法隆寺の支院から天台宗へ改め、再興を果たしました。安土桃山時代になると豊臣秀吉から300石を寄進され、続く江戸期には歴代将軍の御朱印地にもなり、門前町として発展していきました。今に引き継がれる文化財も多く、国の重文だけでも三重塔のほか、いずれも木造の釈迦如来坐像、薬師如来坐像、如意輪観音坐像、日光・月光菩薩立像、十二神将立像8躯、それに紺紙金泥釈迦三尊十六羅漢像5幅、絹本著色聖徳太子勝鬘経講讃図など、まさに宝庫です。
- 『中国行程記』から⑯鵤宿
- 『中国行程記』から⑰斑鳩寺
- 『中国行程記』から⑱太子の膀示石