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  • 2019年5月1日(水) 15時00分 おたかのシネマDEトーク

    おたかのシネマでトーク『ホワイト・クロウ 伝説のダンサー』(2019.5.1水)

    おたかのシネマでトーク

    今日は「ホワイト・クロウ 伝説のダンサー」をご紹介しました。

    監督 レイフ・ファインズ

    出演 オレグ・イベンコ、アデル・エグザルコプロス、セルゲイ・ポルーニン、ラファエル・ペルソナス、ルイス・ホフマン

     

    第二次世界大戦が終わり、ベルリンに壁が築かれることになる東西冷戦の真っ只中の1961年、ソ連のバレエ団の23歳の青年が、公演先のパリで亡命したことは、世界中に衝撃を与えた。
    戦後初のキーロフバレエ団の西ヨーロッパ公演で、連日喝采を浴び、将来を約束されていた彼が、何故“亡命”という決断をしたのか?

    もし亡命したら、二度と祖国には戻れないし、家族や知り合いが辛い立場に置かれることになる・・・、お目付け役のKGBに言われた言葉が胸に刺さりつつも、どうしても踊り続けたいという強い意志の元、祖国や家族を捨てる決心をしたルドルフ・ヌレエフ。

    20世紀、ニジンスキーに続く最も偉大な男性ダンサーと言われ、亡命後は英国ロイヤルバレエやパリオペラ座バレエなどで、野性的、個性的な表現で注目を浴びた彼。英国バレエ界の女王的存在のマーゴ・フォンテインとのパートナーシップでは、20歳近くも年下のヌレエフが彼女をバレリーナとしてよみがえらせたとも言われ、彼はフォンティンから優雅さや気品を学び、又、女性のお添え物的な立場だった男性舞踊手を同等の重要性を持つ立場へと、その後のバレエ界の価値観を変えるほどの改革を成し遂げたのだ。

    その出生からして、とてもドラマティック。1938317日、人と家畜と荷物でごった返すシベリア鉄道の車中で生まれたルドルフ・ヌレエフ。
    そして、6歳の時、初めてバレエを見た彼はこれこそが自分の人生だと確信するに至る。
    地元のバレエ教室でレッスンを受け、17歳でレニングラードのバレエ学校に入学したヌレエフ(オレグ・イヴェンコ)は、そこで指導者のアレクサンドル・プーシキン(レイフ・ファインズ)に出会い、“何故、踊るのか?どのような物語を語りたいのかが重要”という教えを受ける。
    技術を磨くだけでなく、美術館で名画にふれ、文学に親しみ、その感性を磨いていったヌレエフは、やがて多くのバレエ団から誘いを受け、1958年キーロフバレエ団に入団。
    19616月、キーロフバレエ団の初のパリ・ロンドン公演が決まり、彼は生まれて初めて、国外の土を踏むことになる。
    フランス人ダンサーのピエール・ラコット(ラファエル・ペルソナ)や、恋人である仏のアンドレ・マルロー文化相の次男を自動車事故で失ったばかりのクララ・サン(アデル・エグザルホプロス)らとの交流の中で、カフェやナイトクラブで自由を謳歌する彼の行動は、KGBに監視され報告され、運命の616日、パリからロンドンに向かうル・ブルジェ空港で、彼一人だけが帰国を命じられる。

    評伝を読んで、一人の若者の自己を確立しようとする意志の強さに心を掴まれ、是非監督として映画にしたいと思ったのが、俳優で映画監督のレイフ・ファインズ。
    ヌレエフ役に演技未経験のタタール国立オペラ劇場バレエ団のオレグ・イヴェンコを抜擢。彼は『白鳥の湖』や『眠れる森の美女』など、実に素晴らしいバレエシーンは勿論のこと、俳優としても素晴らしい演技を見せ、監督の期待に見事にこたえている。

    1981年のクロード・ルルーシュ監督の映画「愛と哀しみのボレロ」で、ジョルジュ・ドンが演じたセルゲイ・イトビッチは、ヌレエフをモデルとした人物。奇しくも実生活で、この二人の素晴らしいダンサーがほぼ同時期にエイズで亡くなったことには、どこか因縁のようなものを感じてしまう。

    1993年、54歳で、まだまだこれからという時期に亡くなってしまったヌレエフの、20世紀最も偉大なダンサーになるまでの前日譚。
    バレエにあまり興味がないという人にも、自分の思いを貫き通して生きた人間の、熱い情熱の物語として、是非観てほしい作品!

    ★おたか★

    過去ログ・・・

    4月24日 放送 おたかのシネマでトーク「麻雀放浪記」

    4月17日 放送 おたかのシネマでトーク「ハンターキラー 潜航せよ」

    4月10日 放送 おたかのシネマでトーク「アガサ・クリスティー ねじれた家」

    4月3日 放送 おたかのシネマでトーク「ダンボ」